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  2. ❖由緒・沿革❖

この八幡宮の鎮座する位置は福岡県八女市大字本町一〇五番地の一です。ここは、旧「福島城の辰巳(東南)やぐらのあったところで、神社の南側の池は城の堀の名残です。

この社は、旧福島町民の氏神として開元され、祭神は応神天皇·息長足姫尊·武内宿棚の三柱です。

ここでいう旧福島町とは、明治二十二年(一八八九)に合併して出来た福島町のことではありません。それ以前の稲富村·福島村·福島町と言ったころの町分のことです。旧福島城下に発達した町分の総称と言っていいでしょう。

いまから約三百四十年前の寛文元年(一六六一)九月十八日に、城外東部にある土橋八幡宮から勧請開元された旧郷社です。 むかしは、土橋八幡宮を旧八幡(ふるはちまん)、この社を新八幡とも言っていました。いつのころからか、 この社は宮野町八幡宮とも呼ばれるようになりました。

陰暦の八月十五日に執行されていた放生会の例祭は、現在は九月二十三日(秋分の日)前後の三日間に行われています。この放生会に、国指定無形民俗文化財の「灯ろう人形」が上演奉納されます。

境内は二段に分かれ、総面積は約五、六三〇平方メートルで、神殿、拝殿は上段部にあります。

いまの神殿は、安政四年(一八五七)十一月に、氏子により再建されたものです。 神殿を挟むようにして、向かって右から天満社·日吉社·祇園社·松尾社·秋葉社·恵比須社の六社が鎮座しています。いずれもこの八幡宮の末社です。

このうちの祇園社(素蓋鳴社ともいう)は、慶長十五年(一六一O) 六月の創建ですから本社の八幡宮よりも古い社歴を持っていることになります。当時、町づくりのため強制的に移住させられた宮野村(八女市大字宮野)の人たちが、出身地の神を勧請した社といわれています。また、それに由来して、ここの町名を宮野町と言います。祇園社は、明歴二年(一六五六)六月に再建されています。他の五社の社歴はいずれも伝わっていません。

❖末社の祭神と例祭日❖

  • 天満宮 菅原道真(スガワラノミコト)
  • 山王宮 大山昨命(オオヤマグイノミコト)
  • 素盞嗚社 素盞嗚尊(スサノオノミコト)
  • 松尾社 大山昨命(オオヤマグイノミコト)
  • 妙見宮 妙見菩薩(ミョウケンボサツ)
  • 湯布賀社 倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)
  • 恵比須社 事代主命(コトシロヌシノミコト)

❖福島八幡宮の開元❖

江戸初期、田中氏が福島城主だったころの城下に祇園社が二つありました。前城主王の筑売紫広門が肥前田代から勧請した古松町の祇園社と、前の章で述べた宮野町の祇園社です。両社とも個人と小人数により勧請された社でしたから、城下全住民の氏神にはなっていませんでした。

当時、すでに城外東部に土橋八幡営が鎮座していましたが、この社は稲富村と福島村の氏神で、新興の福島城下町民の氏神ではありません。おそらく、 城下の人たちはせん望の眼で、この八幡営の祭礼などをながめていたことでしょう。

元和七年(1621年)に領主が有馬氏に代わりましたが、そのころ既に福島城は廃城になっていました。しかし城下の住民の生業が止まったわけではなく、とくに創成期の福島町人の活動は盛んなものでした。やがて、いくつかの町がふえて庄屋· 別当などの役職が置かれて町の組織が整うと、町民は早速氏神の勧請を思い立ちました。

このとき、彼らは何のためらいもなく、 現世利益をもたらす九州土着の八幡神を選びました。しかも、この八幡神はすぐ近くに鎮座していました。土橋八幡宮です。

寛文元年(1661年)九月十八日、新興の福島町民は土橋八幡宮から神を迎え、氏神福島八幡宮を開元しました。

なぜか、右の福島八幡宮の開元縁起は郷土史書からも消え去っていましたが、僅かに残っている二つの資料で、その縁起が明らかになりました。

福島八幡宮社殿に再建時(安政四年・1857年)の棟札が保存されています。その表面には再建者の祭交が書いてあり、裏面には創建時の棟札が書き写されています。裏面の冒頭には、「当社ハ寛文元年九月十八日ニ福島村二町野ノ神ラ勧請シテ開元建立ス」と書かれ、それに続いて紺屋町·古松町 ,宮野町·矢原町の代表者の氏名が連記されています。

二町野とは、土橋八幡宮の現在地の古名です。

また、寛文十年(1670年)に、久留米藩が領内の神社を調査してまとめた「社方開基」という文書があります。この文書に、「稲富村と福島村の氏神である 八幡宮は、慶長六年(1601年)に、城内から福島村二町野に移された(意訳)」ことが記されています。

棟札の裏書きと、この「社方開基」の記録を総合すると、「福島八幡宮は土橋八幡宮の神(字佐の神)を勧請して開元された」ことになります。両社には親子のつながりがあったのです。

土橋八幡宮から勧請した最大の理由は、前に述べたように、八幡神が最強の現世利益神として信じられていたからでしょう。町民にとってこれは最も切実な理由であり、また身近に、土橋八幡宮の氏子が八幡神の加護により繁栄を続けているのを見聞していたからでもありました。

❖福島商人 松延四郎兵衛❖

寛文元年(1661年)九月十八日、庄屋国武理右衛門尉を代表とする福島町民は、土橋八幡宮から神を迎えて、氏神福島八幡官を仮社殿に開元しました。

そのころ、仮社殿の近くに、松延四郎兵衛という三十五歳になる人物が住んでいました。四郎兵衛の先祖は高橋紹運に仕えた武士でした。父の代に柳河領から高塚村(八女市大字高塚)に移住したのですが、彼は商人になるため、十年前に福島町に引越してきたのです。

松延家の家系書「後証修々覚(以下覚書)」によれば、「当時の福島は名許りの雑木林」だったということです。 以下、この「覚書」と神社に伝わる「八幡宮開元由緒 (以下由緒)」によって、彼の生涯をたどってみましょう。

四郎兵衛は、福島に引越して三年目に早くも蔵を建て、三十一歳のとき一回目の伊勢参宮をすませ、四十一歳のとき再度参宮しています。このことは、彼がすぐれた商才と、厚い信仰心の持ち主だったことを物語っています。

寛文十一年(1671年)、四十五歳になった四郎兵衛は、八幡宮正社殿の寄進を発願します。

『覚書」はこのときの彼の決心のほどを「他に計らず」と記し、また「由緒」には、「町方へ一銭の奉加も申し入れず」と書かれています。 寄進を独力で行う発願でした。

翌年の寛文十二年(1672年)八月、まず神殿が完成しました。このとき、「質の利を捨つ」と「覚書」には記されています。

当時、金融業もしていた四郎兵衛が、神殿の完成を自ら祝って、利子を免除してやったということでしょう。

やがて、商人としての地位が確立した彼は、福島町の庄屋に任命されました(年代不詳·二代目から福島組大庄屋)。

天和元年(1681年)、発願十年目に八幡宮拝殿が完成しました。四郎兵衛は、このと

き五十五歳になっていました。「覚書」には「此後は神主へ」とあり、建造物の一切を八幡宮側に寄附したことを物語っています。

氏神の社殿寄進を成就した四郎兵衛は、こんどはお寺の整備に力をそそぎ、まず無量詩院(市内西古松町)に仏像を、続いて正福寺(市内東矢原町)に多額の調度品を寄進しました。ついで元禄三年(1690年)、六十四歳になった四郎兵衛は先祖の大法要を営みました。そのとき彼は、全町の六十歳以上の老人を招待し「親疎貧福を分かたずー覚書ー」もてなしたということです。彼は七十三歳のときに仏門に入り、名を寿安と改め、以後念仏三味の日々をおくり、八十歳で亡くなりました。宝水三年(1706年)の正月五日のことでした。「覚書」には「正福寺墓所に葬る。五男二女あり」と記されています。

福島八幡宮社殿建立に尽力した松延四郎兵衛はまさに、創成期の福島商人を代表する人物だったと言えましょう。